大御堂にお祀りする運慶作、国宝五軀の仏像群

平家滅亡から一年後の1186年(文治二年)、三十代中頃の運慶による東国での最初の造像で、鎌倉新様式が確立したことを示す、日本の仏像彫刻史上大きな意義のある五仏であります。青年仏師運慶の卓抜した群像表現と心の昂りが伝わってきます。

阿彌陀如来坐像

阿彌陀如来坐像

国宝・運慶作・1186年(文治二年)・像高142.0cm

逞しく、力強い体軀で、圧倒的な重量感があふれている。深く刻み込まれた流れるような衣文も流石運慶と思わせる。縵網相の説法印を結び、激動の時代を生き抜かなければならない当時の武士や民衆を救おうという強い意志を感じさせます。

不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像

不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像

国宝・運慶作・1186年(文治二年)・像高 不動明王137.2cm、矜羯羅童子74.4cm、制吒迦童子83.5cm

羂索をとる左手を、利剣を握る右手と同じ高さに上げた逞しく若々しい上半身、玉眼の両眼をかっと見開き、眉毛をつり上げた眼光鋭い念怒の形相の不動明王が、左前にあどけなく、清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子を、右前に手に宝棒を持ち、眉間にしわを寄せ、口をへの字にしたきかん気で今にも動き出しそうな制吒迦童子を伴って悪に立ち向かう頼もしいお姿は、様々な難儀、災厄から人々を守ろうとされる強い法力を感じさせます。

制吒迦童子立像

制吒迦童子立像

矜羯羅童子立像

矜羯羅童子立像

毘沙門天立像

毘沙門天立像

国宝・運慶作・1186年(文治二年)・像高148.2cm

二匹の邪鬼を踏みつけて、玉眼入りで眼光鋭く一点を凝視して立つ雄渾なお姿には、躍動感、緊張感が巧みに表現されていて、運慶が出合ったであろう東国の若武者のイメージが彷彿としてきます。守護神として、尚武招福の仏様として、東国武士や民衆に崇められてきたことを感じさせます。

五輪塔形木札

五輪塔形木札

四枚・国宝附 願成就院・宝物館蔵

木札(大)二枚は、不動明王と毘沙門天像に、木札(小)二枚は、矜羯羅・制吒迦の二童子像に納められていた。四枚共に梵字で宝篋印陀羅尼が記されていて、不動明王・毘沙門天像の二枚には、壺形の舎利容器が納められていた小円孔を穿ち、舎利が納められていたことがわかります。また、四枚共に造像記が記されていて、文治二年五月三日から造り始めたこと、檀越は時政、巧師は勾当運慶と記し、銘文執筆者は南無観音であると記されています。

その他の文化財

本堂の本尊、阿彌陀如来坐像

本堂の本尊、阿彌陀如来坐像

県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・
像高86.8cm 玉眼入り 
願成就院・本堂蔵

十三世紀初頭の作風から、時政公の供養のために、1215年(建保三年)12月に二代執権北條義時公が建立した南新御堂本尊阿彌陀三尊の中尊であるとされています。

地蔵菩薩坐像

地蔵菩薩坐像(通称:北條政子地蔵)

県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・
像高51.6cm 玉眼入り 
願成就院・宝物館蔵

像座に「寛喜の銘文」が残り、政子七回忌頃の作で、北条泰時が願成就院に奉納したかと思われています。

北條時政公肖像

北條時政公肖像

制作年代・作者不詳 玉眼入り 
願成就院・宝物館蔵

唯一の北條時政公の肖像であります。

現在の本堂

現在の本堂

茅葺き

願成就院創建六百周年にあたり、1789年(寛政元年)に建立されたことがわかっています。時政供養のために1215年(建保三年)にできた南新御堂の後身堂であります。二百三十年の風雲に耐えて本日に伝えられています。

願成就院 修治記

願成就院 修治記

1752年(宝暦二年) 願成就院・宝物館蔵

当山の復興と運慶作仏像の修理に関する1753年(宝暦三年)の貴重な資料。


後北條氏の系譜に連なる河内狭山藩主北條氏貞が、北條氏の末裔として、始祖に関わる願成就院の復興に着手し、運慶作の仏像の修復を行なったことを記している。その中で、不動明王と毘沙門天の二像の像内から木簡が見つかり、その表面に宝篋院陀羅尼が、裏面に始祖の諱、年月日、執筆者、工匠の名が記されていたことまた、木簡の表面の「白玉形分寸中」に舎利二顆が納められていたことが記されている。


さらに、観音・勢至二菩薩名があり、この時には、創建時の阿彌陀三尊の両脇侍が現存していたことが伺われる。

後北條氏虎朱印状

後北條氏虎朱印状

願成就院・宝物館蔵

1559年11月16日(永禄二年)、評定衆から、願成就院の十穀聖に出された書状で、北條氏が大御堂の上葺(屋根替)のため、伊豆国中の家一間楱原升米一升宛、家数8955間半からの勧進を認めたというもの。他に1546年(天文十五年)と1553年(天文二十二年)の朱印状もある。

出土瓦

出土瓦

願成就院・宝物館蔵

発掘調査で出土した鎌倉時代初期の特徴をもつ、建物の軒先に使われた瓦。


同じ型を使って作られた瓦は「同范瓦」と呼ばれるが、出土したこれれの瓦に、鎌倉の鶴岡八幡宮や永福寺の瓦と同范の瓦が含まれていることが確認されていて、願成就院の瓦が同じ時期の瓦であることが明らかになっている。

史跡

北條時政公の墓

北條時政公の墓

願成就院境内

願成就院の創建者(開基)であり、国宝指定の運慶作み仏の檀越(施主)であります。伊豆国北條に館を構えていた伊豆の有力豪族の一人でありました。源頼朝の岳父となり、頼朝の挙兵を扶けて鎌倉幕府の成立に貢献し、幕府初代執権に就任して、北條氏繁栄の礎となり、1215年(健保三年)七十八才で没しました。当山が菩提寺であります。

北條時政公の墓詩歌

著名俳人 水原秋桜子先生が
拝観に訪れて墓前で詠み残された句

時政が ふるさとにのこす 梅雨の墓

秋桜子

足利茶々丸公の墓

足利茶々丸公の墓

願成就院境内

室町幕府八代将軍の足利義政の兄・足利政知が、将軍の命を受けて関東を治めるために鎌倉に派遣されるが、鎌倉まで進出できず、北條時政の館跡の伊豆国北條の堀越に留まり堀越公方と称しました。父政知の没後、二代目公方に就いたのが茶々丸公であります。継承時に起きた相続争いの混乱に乗じて、1493年に伊勢新九郎盛国(のちの北條早雲)の侵攻を受けて滅亡しました。茶々丸公若干16歳でありました。当山が茶々丸公の菩提寺であります。

北條時政公の墓詩歌

著名俳人 石田波郷先生が
拝観に訪れて墓前で詠み残された句

寂かにて 願成就院 梅雨はれぬ

石田波郷

南塔跡

南塔跡

願成就院境内南東部

二段の石積み基壇が明らかになり、大量の瓦が出土した遺構。北條時政公が、1207年(承元元年)11月に建立し、供養を行ったという(吾妻鏡)南塔の基壇跡と思われ、方三間廻縁付きの多宝塔であったと推定されています。

願成就院の御神木・梛の木

願成就院の御神木・梛の木

願成就院境内

願成就院の御神木である梛の木は、源頼朝と北條政子が出会った木であると言い伝えられています。


吉川英治さんの「新平家物語・火の國の巻」の中に登場し、源頼朝と政子がこの梛の木で待ち合わせをしていたとして登場します。


現在も、良縁成就を祈願される参拝者に敬拝されています。また札場では、この梛の木の子孫の葉を使った、良縁祈願のお守りも取り扱っております。

『・・・・・ 橋からつゞく守山の木の間道は、願成就院の三重ノ塔の横へ出る。
こゝは北条家の菩提寺であり、塔は彼女の父平四朗時政が建てたものである。彼女は梛の木陰に佇んで息をやすめた。その間も垂れ衣の間から眸は辺りへ向かって、よく動いてゐる。思慮に富み賢さそうな眼もとである。
─── すると彼方で 『政子・・・・政子』 み堂をつなぐ渡殿の柱の陰から、かう呼ぶらしい手がさし招いた。
頼朝の笑顔だったその下へ走り寄って行く虫の垂衣の影、抱き上げるように、白い手を掬ひ取って縺れ合ひつゝすぐ廻廊の奥へ消えて行く男女の後ろ姿、それはもう何かに憑かれてゐる者の歩みだった。これだけの寺院である。誰かは 見もしたにちがひない。
けれど大檀家の姫君であるし、ひとりは配所の佐殿だ、僧房中の者が見て見ぬ振りをしてゐるにちがひない。・・・・・』

吉川英治の『新平家物語・火の國の巻』より