願成就院略縁起
当山は、山号を「天守君山」と称し、阿彌陀如来を本尊とする高野山真言宗の寺であります。
創建は、鎌倉時代初頭の文治五年(1189)に遡ります。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権で北條政子の父、北條時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まります。幕府の事蹟を伝える歴史書「吾妻鏡」には、時政公が建立してから三代執権北條泰時公の頃までの様子が詳しく記されています。時政公が建立した大御堂と南塔、二代執権北條義時公が亡父時政公供養として建立した南新御堂、三代執権北條泰時公による北條御堂と北塔の建立など、堂塔伽藍の営作は北條氏三代にわたります。そして、貞応元年(1222)には、「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷よりくだされており、この地に、守山を借景として、中之島のある大きな池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が北條氏の氏寺として造営されていたのであります。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和四十八年に、境内を中心に周辺一部地域を含めて「旧願成就院跡」として国指定史跡になっています。
鎌倉時代の伽藍は、十五世紀末、伊勢新九郎長氏(後の北條早雲)の堀越御所(北條時政館跡)攻めの兵火で焼失しましたが、創建時に祀られた大仏師運慶謹作の五仏を中心とする七体の仏像と、仏像胎内造像銘札四枚は、奇跡的にも今日に伝えられており、この尊きご仏像を拝観しますと、幕府最大の権力者北條氏と、この寺の盛時を偲ぶことができます。
本尊阿彌陀如来坐像・不動明王立像・矜羯羅童子立像・制吒迦童子立像・毘沙門天立像の五体の仏像は、胎内造像銘札によって文治二年(1186)の造像で、運慶三十代半ば頃の謹作で、日本彫刻史上、運慶様式・鎌倉様式の成立を示す、極めて大きな意義を有する尊像であるとして、平成二十五年に国宝に指定され、造像銘札四枚も附国宝に指定されています。また、本堂(茅葺き御堂)の本尊阿彌陀如来坐像と、宝物館に祀る北條政子尼七回忌供養地蔵菩薩の両像も、一三世紀前期の慶派の正統仏師による秀作とされ、県指定文化財になっています。
境内には、北條時政公と足利茶々丸公(堀越御所二代公方)の墓所があり、両公の菩提寺であります。源頼朝公旗揚げの地であり、北條氏の本拠地でもあったこの地は、まさに鎌倉幕府草創の地であります。伊豆韮山を訪れていただき、当山の運慶作五仏を拝観されて、八百年昔の歴史のロマンに想いを馳せていただきたいと思います。
願成就院の鎌倉時代全盛期の伽藍配置想定図
境内や周辺地域の発掘調査が長期にわたって行なわれ、守山を背景として東面する諸堂宇が建ち並び、大きな池の広がる大規模な浄土庭園をもつ、鎌倉時代の願成就院の伽藍の様子がかなりの程度明らかになりました。
同時代に建てられた浄土様式の寺としては、平泉の毛越寺、鎌倉の永福寺また京都の浄瑠璃寺などが有名です。
現在、守山東斜面と境内及び東側隣接地が「史跡願成就院跡」として国指定史跡に指定されています。